回顧録
このページは、2026年3月10日の最終講義では話せなかったことも含め、これまでの研究や経験してきた出来事について、まとめたものです。より詳細な内容も、文章内にリンクを貼っていきます。
修士時代(東京大学工学系研究科計数工学専門課程)
甘利研
修士課程は、甘利俊一先生の研究室に進学しました。計数工学科の学部講義で、甘利先生の講義が面白かったのが理由ですが、実は甘利先生が何者であるかは、よく理解していませんでした。逆誤差伝搬法の基礎となる理論の創始者ですが、私が計数工学科に入学した時には、微分幾何学を用いて統計学を体系化する研究を行なっていて、この分野は情報幾何学として発展しました。面白いことに、情報幾何学はニューラルネットワークの理論とも深い関係があります。
甘利研は、先輩・後輩とも、恐ろしく優秀な人たちの集まりでした。甘利先生は、研究室に誰よりも早く(朝8時ごろ?)やってきて、10時まで自室にこもって研究をしていました。10時には、研究室のお茶のみ部屋(東大工学部6号館2階にあった研究室は、学生室、茶飲み部屋と教授室があった)にやってきて、秘書さんの入れたお茶を飲みながら雑談やTVゲームをされていました。その後、また教授室にこもり、昼頃にまたお茶のみ部屋に出てきて、弁当を食べられていました。3時ごろに、またお茶を飲みに出てくることもありました。この間、囲碁相手の先生が遊びにきたら、お茶のみ部屋で囲碁を打つこともあり、午後は大学の会議などに出ることもありました。
夕方6時には研究室から退勤されましたが、何十年も後になって聞いたところでは、毎晩、家で晩酌で奥様とビールを飲んでいたそうです。
甘利先生自身の若かりし時代については、伊理正男先生の追悼記事として、こんなことを書かれています。
アフターファイブ
甘利先生は、17時ごろになると、研究室のメンバーと地下の卓球場で卓球を楽しまれることもありました。甘利先生の卓球は、速い球は打たないが、緩い球を相手の取りにくい卓球台の端の方に「運ぶ」感じの不思議なスタイルで、変化球サーブ(Drの先輩で松浦さんという人がいて、元卓球部で怪しげな変化球サーブを打つのだが)も軽々と返してくる。私は当時テニスを一生懸命やっていたので、体力は充実しており、力任せの卓球で、甘利先生とは五分五分よりは勝っていたと思う。
私がM2の夏頃に、甘利先生に誘われてコントラクトブリッジを始めることになった。3階にあった南雲研究室の助手の西村さんがコントラクトブリッジが好きで、私を含めた3人と、同期で南雲研の学生らと、夕方になるとブリッジを1時間くらいやっていた。
TVゲーム
甘利先生が帰られた後のお茶飲み部屋では、当時、NECのPC88シリーズ、Apple IIなどのゲーム専用機(失礼−0)が研究室にあり、学生と倉田助手が集まって、夜な夜なTVゲームに興じていた。TVゲームは、甘利先生は「名人」と自称されていたのだが、反射神経が必要なゲームではことごとく私が打ち負かしたため、甘利先生はその後、RPGなど反射神経を必要としないゲームに逃げていかれた。覚えているところでは、Snake bite、エイリアンII、ブロック崩し、そして私が甘利先生をTVゲーム引退に追い込んだ Crossfireなど、今から考えても良くできたゲームがあった。任天堂のファミリーコンピュータ(ファミコン)の初代機が発売されたのはこの頃で、テニスゲームなどをやっていた。