電子技術総合研究所
研究所パラダイスの日々
電総研は、工業技術院と言う通称産業省の外局の傘下にある国立研究所であった。したがって、その職員の身分は、国家公務員で、4月1日に霞ヶ関で辞令をもらい、その後代々木の国家公務員研修センターで研修を受けた。
当時の国家公務員の勤務時間は、朝8時半から夕方5時までで、裁量労働もフレックスもない。しかし、電総研では、誰が何時に来て何時に帰るかなど、誰も気にしていなかった。みんな好きな時間に来て、夜遅くまで研究して帰るのである。もともと都内に滞在していた国立研究所がつくばに集合していたが、隣の研究所などは皆朝8時半に来て、夕方5時には窓の電気が消えてしまう。研究者はお互い驚いていたのだそうだ。
入所まで
甘利研の2年先輩の麻生秀樹さんが電総研に就職していた。同じく2年先輩の倉田耕治さんが、「麻生は夏はテニス、冬がスキーで年中日焼けして幸せにやっている」という話を聞いて、電総研に就職したいと思った。
甘利先生に言ったら、「あそこは、博士を持っていない場合は、上級職公務員試験に合格しないといけないが?」と言われたが、実はM1の時に同級生に誘われて、すでに合格していた(資格は2年間有効)。情報の分野の試験は、計数工学科の先生も作っていると噂されていて、大学院入試の勉強をしていれば、特に勉強しなくても合格できた。
電総研での所属研究室は音声研究室に入ることになっていた。別の部の部長の柏木寛さん(後の電総研所長、工業技術院長)から、別の研究室(推論研究室)に来ないか?という話があり、入所前に電総研に見学に行ったが、義理人情から音声認識研究室に入った。
音声認識研究室
全く門外漢の音声認識の研究をする研究室に入った。修士論文は一応、統計の微分幾何学をやっていたことになっているので、数理の基礎があって統計が分ければ音声認識もわかるだろう、という見立てだったがとんでもない。研究室長は、「10年くらいどっぷりと音声のデータに向き合って」とか言われたが、あまり乗り気にはなれなかった。大津展之さんが室長をしていて、麻生さんもいた数理情報研究室のゼミに参加したりして、知的好奇心を満足させていた。
音声研究室では、皆が日本音響学会に入っていた。春と秋に2回、研究発表会(全国大会)があり、そこで口頭発表するのが定番だった。研究室で学術誌論文をコンスタントに出している人はいなかったと思う。
当時は、旅費と研究費は厳密に区分されていた時代1で、全員が2回の全国大会(日程は2―3日)に出張する旅費などないので、研究室長の裁量で、1泊分の旅費とかが出ていたと思う。
当時は、仕方なく年2回の学会発表をやっていたが、正直に言って、大したことはやっていなかった。
国費は、研究所に配分されるはるか上流、おそらく各省庁に配られる前に、「庁費」と「旅費」などに分かれて、それがそれぞれ研究所まで枝分かれして分配される仕組みだった。したがって、研究費から旅費は支出できないし、旅費は旅費として使い切らなければならない。もちろん、旅費を一円単位で正確に使い切ることなど不可能なのだが、どういう仕組みだったかはよく知らない。1996年ごろに始まった電総研のラボ制2では研究ラボのリーダーになったが、旅費は1円も持っていなかった。
電総研音声研究室では、計算機室にみんなが使っている大きな計算機(なんと呼ぶのだろうか?ワークステーションができる以前で、メインフレームと呼ばれる計算機の一種だったかもしれない)を使って、音声のフーリエ変換などの信号処理や、ニューラルネットの計算などをやっていた。ディスプレイは、当初はテクトロニクスのブラウン管のもので、波形を表示するためのオシロスコープのようなディスプレイで、画面がスクロールしない。画面いっぱいまで順に表示したら、1回画面を全消去して上から表示させていく、というタイプである。
そのうち、サンマイクロシステムズからSUN3が出て、室長に交渉して何台か買ってもらった。ワークステーションの走りである。ビットマップディスプレイが付いてくるので、波形表示などもできる。当時、テクトロニクスの端末用に使われていたPlot10というFORTRAN用のグラフィックライブラリがあり、その関数を使って音声波形やフーリエ変換の波形などを表示するライブラリを大村さんが作っており、みんなが使っていた。私は、みんなを図体のでかい計算機とテクトロニクスの端末からワークステーションとビットマップディスプレイの世界に誘導するため、みんなのソフトウェアと組み合わせて使うPlot10-bitmapのライブラリを、SUNのビットマップディスプレイの描画コマンドを使って作った。リンクするライブラリをこれに変えれば、今までのプログラムでビットマップディスプレイに波形などを表示できるわけである。その後、同期の小方一郎が、Xwindowという便利なものがあるから、それでライブラリを作るべき、と教えてくれた。自分でもSUN3の上でXWindowを使い始め、ライブラリも作った。当時、端末で複数のWindowを起動するシステムは画期的だったのである。
その後、電総研が所属する通産省工業技術院の計算機センターにCrayのコンピュータが導入された。SUNで動かしていたソフトウェアをCray上でコンパイルすると、サブルーチンの名前のリストがパッと表示されるだけで、一向にコンパイルする様子がない。変だな?と思ったら、一瞬でコンパイルが終わっていたのである。これには驚いた。普段は、プログラムをMakeするときや、SUNのカーネルをカスタマイズしてコンパイルするときなど、Makeを叩いてからパソコンでゲームなどをしていたのだが、これ以降、コンパイル中の時間に遊ぶなどといった習慣はなくなってしまった。